Vol.1 研究者としての葛藤
江川先生は、東京大学の教授であったお父様と順天堂大学の創設家である佐藤家ご出身のお母様の二男として、1937年2月19日に東京にて誕生しました。
1963年に東大医学部を卒業後、東大医科学研究所へ入り、以後およそ30年間、助手、助教授、教授として、がんと免疫に関する基礎医学の研究に没頭しました。
江川先生の基礎研究の中心テーマは、がんと免疫との関係でした。
様々な実験を重ねるなかで、がん細胞表面だけに現れる目印があり、それに対して免疫が働いていると考えないと説明のつかない結果にいくつも出合ったことから、がんに対して免疫細胞が攻撃を行うのではないか、と夢中で研究したのでした。
その間、二度にわたり渡米し、1969年からはベイラー医科大学、テキサス大学で研究員として、また1987年からはカリフォルニア大学で客員教授として基礎研究に従事するなど、充実した研究者人生を送ってきました。
ただ、思う存分研究に打ち込む一方で、年を経るごとに、心の中で葛藤のようなものが芽生えていました。これは、定年を間際に控えた頃の心境を綴ったものです。
「私は代表的な国立大学の教授であり、心おきなく研究できる立場にいました。しかも実験研究は私の好きな仕事です。『なんの不足があろうか』といってみれば、そのとおりでしょう。それでもなお、『これが医学を志したときになろうと思っていた状態なのだろうか』というような思いが、心をよぎって仕方なくなってきたのです。(中略)
『いままでのまったく基礎的な研究を進めて、もう少し実用的な段階にもちこみたい』。いい直せば『少しは世の中の役に立つようにもしたい、そうすれば痕跡は残らなくても、満足感は少しは残るのでないか』。そういった欲求が抑えがたくなってきました。」(『がん治療第四の選択肢』河出書房新社刊)
そんな想いが、江川先生の中で膨らんでいました。
東京大学の教授は、定年まで勤めた後、別の私立大学へ移って教育に専念するという道があり、その後の生活も安定します。しかし、それでは研究を十分に続けるのは難しくなります。葛藤の末、江川先生は、定年より10カ月早く教授の職を辞し、とある財団の研究所に移って研究を続けることにしました。
そこでは、大学のように報酬が出るわけではありません。
江川先生は、研究スペースだけ提供してもらって無給で研究を続けることにしたのです。生活のために多少のアルバイトもやっていたそうですが、それも最小限にし、財団の研究所で、何の報酬もなく、ただ一人で毎日朝から晩まで実験研究に取り組みました。
その時江川先生の頭にあったのは、これまでの基礎研究で得たものを、何とか実用段階まで進め、がん患者さんの役に立つ形のものにしたいという想いでした。